おしらせ


2013/03/15

GOERZ BERLIN Doppel-Anastigmat CELOR 130mm F4.8 and DOGMAR 100mm F4.5
ゲルツ ドッペル・アナスティグマート セロール/ドグマー




銘玉Dagor(ダゴール)を設計しGoerz(ゲルツ)社の主任設計士となったEmil von Hoegh(エミール・フォン・フーフ)[1865--1915]はDagorよりも更に明るく、室内撮影やポートレート撮影に強い大口径ダブルアナスティグマートの設計にとりかかった。Hoeghは光学ユニットに「空気レンズ」と呼ばれる革新的なアイデアを導入し球面収差の補正力を強化した新型レンズを開発、1899年にDoppel-Anastigmat Series IB(ドッペル・アナスティグマート・シリーズIB)の名で世に送り出している。このレンズは当時の大判撮影用レンズとしては極めて明るい口径比F4.5を実現している。シリーズIBは1904年に同社のW.Zschokke(W.ショッケ)らによる再設計でCelor(セロール)とArtar(アーター)へと置き換わり、更に1913年の再設計ではコマの補正を強化したDogmar(ドグマー)へと進化している。

空気レンズを導入した
ゲルツ社の大口径アナスティグマート

空気レンズ(Luft Linsen)とはレンズをより明るくするために導入されてきた設計技法の一つで、ガラスとガラスの間に狭い空気層を設け、本来は何も無いはずの空間部分を屈折率1のレンズに見立てることで設計に自由度を与え、球面収差を効果的に補正するというものである。この技法は1953年登場のズミクロンM(Leitz社)に採用されたことで広く知られるようになり、後の日本製大口径レンズにも積極的に導入されている。空気レンズのアイデア自体は19世紀の末頃に登場しており、独学でレンズの設計技法を身に付けたEmil von Hoeghも大口径アナスティグマート(Doppel-Anastigmat Series IB F4.5)を開発する試行錯誤の過程の中で同等のアイデアに到達している[Pat. DE109283 (1898)]。Hoeghの設計したSeries IBは1903年に同社のWalther Zschokke(W.ショッケ)とFranz Urban(F.アバン)によって再設計され、凸レンズに用いられていた高価なバリウム・クラウン硝子が低コストで気泡が少なく光の透過率の高いケイ酸塩クラウン硝子へと置き換えられた(US Pat.745550)。この時にレンズ名もCelor(セロール/ツェロー)へと改称され翌1904年に再リリースされている。Zschokkeはその後もCelorを改良し、困難だったコマの補正にも成功、1913年に後継製品となるDogmar F4.5を世に送り出している。
下の図は1904年に発売されたCelor(セロール/ツェロー)F4.5と、後継レンズとして1913年に発売されたDogmar(ドグマー) F4.5の断面である。凸レンズと凹レンズの間に設けられた狭い隙間が空気レンズである。CelorとDogmarは一見同一の構成にも見えるが、Celorは前群と後群の光学ユニットが絞りを中心に完全対称であるのに対し、Dogmarは前群の屈折力がやや後群側に移され対称性が破れている。


Celor F4.5(左)とDogmar F4.5(右)の構成図(Goerz American Opt. Co.1915年のカタログより引用)
Celorの設計方法は至ってシンプルである。まず正の凸レンズと負の凹レンズを狭い空気層を挟んで配置し、これら光学ユニットの外殻の曲率を非点収差が0になるように与える。次に、凸レンズのガラス屈折率を凹レンズのそれよりも大きくすることで、前・後群それぞれの光学ユニットに新色消しレンズと同等の作用を持たせ軸上色収差を補正する。こうしてできる1対の光学ユニットを絞りを挟んで対称に配置し、歪曲と倍率色収差、コマ収差(メリジオナル成分)を自動補正する。ただし、光学ユニットが空気層を持つ場合、サジタルコマ収差は補正されない。最後に空気レンズの発散作用を利用し球面収差を補正する。空気レンズの形状を調整し球面収差が最も小さくなる最適解を探索することでレンズの大口径化を実現するのである。この設計の最大のポイントは新色消しレンズの効果を持ちながら同時に球面収差が容易に補正できるところにある。本来は硝材の選択に頼り困難なところが空気レンズの導入によって可能になっているのである。
Celorはシンプルな構成で諸収差を合理的に補正できる高性能なレンズであるが、遠方撮影時に顕著に発生するコマのため風景撮影には向かず、同社のDagorほど万能ではなかった。この問題に対し、Zschokkeは前群の正レンズの屈折力を僅かに後群側の正レンズにシフトさせる事でコマの抑制が可能になることを発見、Celorの更なる改良と万能化に成功し、1913年に新型レンズDogmar F4.5を完成させている。
Series IBに始まりDogmarの登場によって収差的に完成の域に達したCelor/Dogmar型レンズではあるが、空気レンズの導入により空気とガラスの境界面が8面とこの時代のレンズにしては多く、階調描写力では同社のDagor(ダゴール)には及ばなかった。境界面の数を抑えることはコーティング技術が確立されていない時代のレンズ設計において非常に重要な事であり、各境界面で発生する内面反射光の蓄積がコントラストや発色、シャープネスなどの階調描写力に甚大な影響を与えてしまう。この問題を解決するコーティング技術の普及はDogmarの開発から30年以上も後の事である。もしもDogmarが造られた時代にコーティング技術があったなら、Goerz社のフラッグシップレンズの座はDagorからDogmarに置き換わっていたかもしれない。


参考文献
・「レンズ設計のすべて」辻定彦著(電波新聞社)
・「最新写真科学大系・第7回:写真光学」山田幸五郎著 誠文堂新光社
Goerz Lenses(Official catalog in 1915), C.P.Goerz American Opt. Co.
・R. Kingslake, A History of the Photographic Lens

Doppel anastigmat Series IB Celor 130mm F4.8:シリアル番号 Nr 186073(1900-1908年に製造されたCelorの初期ロット), 真鍮製バーレルレンズ, 絞り値は無表記, フィルター径:不明(改造により43mmに変換されている), 構成は4群4枚, ガラス面にコーティングのないレンズである 

Dogmar 10cm F4.5: シリアル番号 591405(1922-1923年の製造ロット), Zeiss-Ikon製ダイアルコンパー式シャッター搭載(コンパー0番), シャッタースピード:1/250s--1s, 絞り値:F4.5--F36, フィルター径:28mm, 構成は4郡4枚の変形Celorタイプ。ガラス面にコーティングのないノンコートレンズである。M42リバースリングとステップアップリングを使用し無改造でM42へと変換している。レンズ名はラテン語で「信条」を表すDOGMAが由来


製品ラインナップ
Celorは1898年に開発されたDoppel Anastigmat Series IBの後継レンズとして1904年から市場投入されている。広角から超望遠まであらゆる焦点距離に対応できる融通の利く設計であり、1913年のGoerz社のカタログには焦点距離の異なる14の製品ラインナップが掲載されている。焦点距離ごとに列記すると、2+3/8インチ(約6cm) F4.5、3インチ(約7.5cm)F4.5、3+1/2インチ(約9cm)F4.8、4+3/4インチ(約12cm)F4.8、6インチ(約15cm) F4.8、7インチ(約18cm)F4.8、8+1/4インチ(約21cm) F5、9+1/2インチ(約24cm) F5、10+3/4インチ(約27cm) F5、12インチ(約30cm) F5.5、14インチ(約35cm) F5.5、16+1/2インチ(約42cm) F5.5、19インチ(約48cm) F5.5がある。また、Kodak製等の小型カメラ向けに5インチ(約13cm) F4.8も供給されている。これに対し、Dogmarは1915年の米国Goerz社のカタログに新型レンズとして紹介されており、焦点距離の異なる12のラインナップが掲載されている。焦点距離ごとに列記すると、2+3/8インチ(約6cm)、3インチ(約7.5cm)、4インチ(約10cm)、5インチ(約13cm)、5+1/4インチ (約13.3cm)、6インチ(約15cm)、6+1/2インチ(約16.5cm)、7インチ(約18cm) 、8+1/4インチ(約21cm)、9+1/2インチ(約24cm) 、10+3/4インチ(約27cm)、12インチ(約30cm) (F5.5)などがある。カタログにはCelorがスタジオ撮影や製版、コピーなど近接域からポートレート域の撮影に向いていると紹介されているのに対し、Dogmarはグラフィックアートや風景撮影に最適と記載され、近接域から遠距離まであらゆる距離に向いていると紹介されている。このあたりは遠方撮影時にコマの出るCelorに配慮した解説なのであろう。

入手の経緯
Dogmar 100mmは2013年1月にeBayを介してハンガリーの写真機材業者から落札購入した。商品ははじめ135ドルで出品されていた。商品の状態については「Very Good Conditionのドグマ-。中古だが素晴らしい。シャッターは全てのスピードで適切に動作する。硝子はクリアーだ。鏡胴は少し使用感がある。絞りはパーフェクトに動作する。コレクターやフォトグラファーにオススメする。」とのこと。スマートフォンの自動スナイプソフトで入札締め切り5秒前に155ドルで入札したところ誰と競り合うこともなく開始価格のまま私のものとなった。送料込みの価格は160ドルである。届いた品は経年にしては良好。ただし、写りに影響の無い程度で小さなキズとホコリの混入がみられた。安かったのでこれで良しとしよう。
続いてCelor 130mmは2012年11月にオールドレンズ愛好家のlense5151(レンズこいこい)さんからお借りした。lense5151さんはDagorでもお世話になっている。浮き世離れした写りを追い求める方のようで、Celorについては「温泉のような写りが楽しめる(笑)」などと謎めいたコメントを添えていた。

撮影テスト

CANERA:  EOS 6D
LENS HOOD
  Celor: ステップダウンリング(43mm-30mm)+望遠レンズ用フード(30mm
  Dogmar:望遠用メタルフード(28mm径)

Celorの特徴は遠方撮影時にコマが発生しヌケが良くない事と、空気とガラスの境界面の数が8面とノンコートレンズとしてはやや多く、内面反射光が蓄積しやすいことである。コントラストは低下気味で軟調、発色も淡く、遠方撮影時ではハイライト部のまわりがモヤモヤとソフトな描写になる。しかし、これらを除けば収差的には性質が良く、ピント部には高い解像力が実現されている。凹凸レンズの数の比が2:2とバランスしていることから非点収差の補正は容易で、像面を平らにしたまま四隅まで高い解像力を維持できる。フルサイズセンサーのカメラによる不完全な評価ではあるがグルグルボケや放射ボケもほとんど見られない。後ボケは概ね整っているが、像が硬めでザワザワと煩くなることがある。ハイライト部を肉眼で拡大チェックする限り色滲みなどは認められず、定評どうり軸上色収差の補正効果は良好のようである。近接撮影時のヌケは悪くない。
Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D AWB:  温泉的な描写効果とは、このことなのだろうか。開放では遠方撮影時にコマが顕著に発生する。拡大すると良く分かるので上の鬼瓦の部分を拡大し下に提示する
上の写真の一部を拡大したもの。ハイライト部のまわりがモヤモヤとソフトでヌケが悪い。こういう妖しい描写は女性のヌードを撮るのには適している。遠方撮影でヌード作品が成立するかどうかは別として、こういう描写表現も悪くはない
Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D(AWB): 近接撮影の方がヌケは良いようだが、開放ではまだモヤモヤ感が残っているようで、椅子の背もたれなどが妖しい雰囲気を醸し出している。後ボケは硬くザワザワとしている

Celor 130mm F4.8@F4.8(開放)+EOS 6D(AWB): 手前の掲示板にもコマが盛大に発生している。その影響で全体的にコントラストも下がり気味だ


Celor 130mm F4.8@F6.3(目測)+Nikon D3, AWB: 近接撮影時のヌケは悪くない。少し絞るだけでスッキリとシャープに写り、解像力も良好だ



 
続くDogmarであるが、温調で味わい深い発色傾向が印象的なレンズだ。コマについてはGoerzの1915年のカタログに記載されているとうり、Celorよりも発生量が少なくヌケは良い。その分だけコントラストも高く、Dagorほどではないものの風景撮影においてもスッキリとシャープに写る。もちろん現代のレンズに比べれば軟調でコントラストは低く、シャープネスも強くない。解像力はDagorを上回る印象をうけるが階調描写力では一歩及ばない。ノンコートレンズなので逆光撮影には弱く、コンディションが悪いと盛大なフレアが発生する。今回はフレアを上手く生かした作例にもトライしてみた。
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOS 6D, AWB: このとおり黄色に被る温調気味の発色傾向だ


Dogmar 100mm F4.5@F6.3 + EOD 6D, AWB: 肖像権に配慮しレタッチで人相を変えてある。階調描写はたいへん軟らかい。遠方撮影時もハイライト部からはコマが出ずヌケはCelorよりも良いようだ

Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB:  ピント部は開放から高解像でよく写る。改造力はDagorを上回る印象である
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB: レタッチで人相を変え個人が特定できないよう にしてある。逆光で盛大に発生するフレアが温泉の湯煙ような演出効果を生み出す。この効果を強調させたいならば、ハイライト気味に撮影するとよい
Dogmar 100mm F4.5@F4.5 + EOD 6D, AWB: 色飽和とフレアを生かし、妖狐のあやしい雰囲気を演出している。オールドレンズならではの写真効果であろう


Dogmar 100mm F4.5@F8+EOS 6D, AWB: CelorやDogmarは軸上色収差が非常に小さく、製版やコピーに利用されることも多かったようである。このとおりになかなかの描写である

2013/02/28

Boyer paris Beryl 90mm F6.8 and Saphir 《B》 100mm F4.5

 
パリを拠点に戦前から活躍していたレンズメーカーのBOYER(ポワイエ)社。同社の生産したレンズには宝石や鉱物の名が当てられることが多く、Saphir(サファイア/蒼玉)、Topaz(トパーズ/黄玉)、Perl(パール/真珠)、Beryl(ベリル/緑柱石)、Emeraude(エメラルド)、Rubis(ルビー)、Jade(ジェード/ひすい)、Zircon(ジルコン/ヒヤシンス鉱)、Opale(オパール)、Corail(サンゴ)、Onyx(カルセドニー)などがある。レンズを設計していたのはSuzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ) という名の女性エンジニアである。フランス!、宝石!!、女性設計士!!!。気分がワクワクと高揚してしまうのは私だけであろうか?

パリで生まれた宝石レンズ達
Boyer Beryl and Saphir 《B》

Boyer(ポワイエ)社は1895年にAntoinr Boyer(アントワーヌ・ポワイエ)という人物がフランスのパリに設立したレンズメーカーである。設立当初は従業員4名の小規模な会社であったが1925年に転機が訪れる。創業者のAndré Boyerが死去し、会社の経営権が息子のMarcel Boyer(マルセル・ポワイエ)に引き継がれたのである。ところがMarcelは経営を嫌がり、直ぐにBaille-Lemaire社・写真部門のチーフマネージャーAndré Lévy (アンドレ・レビー) [1890-1965]に会社を売却してしまった(1925年)。そして、新たな経営者となったAndréの妻こそが、その後40年に渡りBoyer社の主任レンズ設計士となるSuzanne(スザンヌ)その人である。
   Boyer社が生産したレンズは一般撮影用(スチル用/シネ用)をはじめ、写真製版用、引き伸ばし用(印画用)、複写用、プロジェクター用、オシロスコープ記録用、航空撮影用など多岐にわたる。レンズの設計構成もダブルガウス型、テッサー型、トリプレット型に加え、ペッツバール型、ダゴール型、プラズマート型、トポゴン・メトロゴン型、ヘリアー型などマニア心をくすぐるものが揃い、設計士Suzanneの趣味の広さを知ることができる・・・。いや、単に天真爛漫なうえ夫が経営者なので好き勝手し放題だったのかもしれない。きっとそうだ。

女性設計士Suzanne
Suzanne Lévy-Bloch(スザンヌ・レビ-・ブロッホ) [1894-1974]はパリで活動していたアルザス人建築家Paul Bloch(ポール・ブロッホ)の娘である。彼女は数学で学位を取り、シネマスコープの発明者として名高い天文学者Henri Chrétien(アンリ・クレティアン)に師事した。ちなみにP.Angenieux(ピエール・アンジェニュー)もHenriに師事したかつての同門生である。彼女はその後、Henriが創設に協力したパリの光学研究院(Institut d'optique théorique et appliquée)のエンジニアとなっている。夫のAndréが1925年にBoyer社を買い取り経営者につくと31歳で同社の設計士となり、その後はAndréと死別する1965年まで数多くのレンズ設計を手掛けている。彼女の孫娘Isabelle Lévy(イザベル・レビー)はSuzanneがフランスで最初の女性光学エンジニアであったと確信している。Isabelleは彼女の祖父母達(AndréとSuzanne)のことを回想し、祖父Andréは会社の経営、祖母Suzanneはレンズの設計に専念しながらも、2人が一体となって事業に取り組んでいたと述べている。Suzanneは会社にとって欠かせない存在でありながら、同時にLévy家の母として家事・育児をこなしていたわけだ。おそらくAndréはSuzanneの尻に敷かれていたに違いない。マニア心をくすぐるBoyer社のレンズ達は、こうした夫婦間の力関係によって生み出されたのではないだろうか。なお、1965年に経営者Andréが死去すると会社の運営は長男のRobert Lévy(ロバート・レビー)が引き継いでいる。

BOYER社のその後
1965年にBoyer社の経営はLévy家の長男Robertの手に引き継がれるが、会社は間もなく経営危機に陥り1970年代初頭に倒産している。ヨーロッパの写真工業は60年代から70年代にかけて衰退の一途を辿っており、Boyer社もその例外ではなかったのだ。倒産後、会社はいったん閉鎖されるが、その後フランスの光学機器メーカーCEDIS(セデス)社のオーナーM. Kiritsisによって買収され、レンズの生産はCEDIS-BOYER社のブランドとして復活する。Kiritsisという人物はBoyer社買収の数年前まで存続していた光学機器メーカーRoussel(ラッセル)社の前オーナーでもあった。CEDIS-BOYER社レンズの設計と組み立ての最終工程のみを行う事業規模の小さな会社であり、レンズエレメントなどの外注部品の製造はBoyer社時代の人脈に頼っていた。同社はその後10年間存続し、オーナーのKiritsisが死去した後、1982年に閉鎖されている。

Beryl 90mm F6.8: 重量(実測) 91g, 絞り羽 12枚, 絞り値 F6.8-F32, フィルター径 19mm, マウント M39/L39, レンズ構成 2群6枚(Dagor型), 真鍮製バーレルレンズ

Saphir 《B》 100mm F4.5: 重量(実測)210g, 絞り羽 18枚,絞り値 F4.5-F22, 構成4群6枚(Plasmat型),フィルター径 36mm, M39/L39マウント, 真鍮製バーレルレンズ。戦前の古いBoyer製レンズによくみられる鏡胴内の黒いコバの劣化が本レンズにもみられる。海外のマニア層の間では最近この現象をBoyeritisと呼び始めている(Schneideritisにかけた造語)
今回、私が入手したレンズはBOYER社の中でも比較的レアなモデルと言われるDAGORタイプ(2群6枚)のBERYL(ベリル) 90mm F6.8と、比較的入手しやすいPLASMATタイプ(4群6枚)のSAPHIR(サファイア) 《B》 100mm F4.5である。Boyer社のレンズはその大半が特許期限の切れた他社のレンズ構成を模範とする再設計品であり、Beryl 90mm F6.8も前エントリーで取り上げたGoerz社のDagor 90mm F6.8をお手本にSuzanneの手で再設計された改良レンズである。デットコピーではないと言い切れるのはBeryl 90mmのバックフォーカスがDagor 90mmのそれとはかなり異なるからである。また、Dagorは絞りに対する焦点移動(フォーカスシフト)がたいへん大きなレンズであるが、Berylではこの点がかなり改善されているという報告もあり、絞り込んで撮影する場合にも開放でピント合わせができるよう改良されている。Berylは色収差の補正が非常に優れているという報告もある。 レンズの名称はベリリウムを含む六角柱状の鉱物「緑柱石」から来ており、宝石のエメラルドはその一種として有名である。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離50mm, 85mm, 110mm, 135mm, 180mm, 210mm)が発売され、戦後になってからは1970年代に少なくとも11種類のモデル(85mm, 90mm, 100mm, 110mm, 135mm, 180mm, 210mm, 240mm, 250mm, 305mm, 355mm)が発売された。いずれもDagorと同じF6.8の口径比を持ち、前群を外した状態において後群のみで撮影することもできる。この場合には焦点距離が約2倍、開放絞り値はF13となる。なお、同社のレンズは1947年以降の製造ロットからガラス面にコーティングが施されるようになっている。Berylの姉妹レンズとしては近接撮影用に設計されたと思われる用途不明のBeryl S F7.7と、リプログラフィック用レンズとして供給されたEmeraude(エメラルド)F6.8があり、いずれも構成はDagorタイプである。Berylにはシンクロコンパーシャッターを搭載した製品個体もあるため、一般撮影用に設計されモデルなのであろう。
一方のSAPHIR 《B》は4群6枚の構成を持つPlasmat(プラズマート)型(空気層入りの変形DAGORともとれる)の引き伸ばし用レンズである。このタイプの構成も人気があり、光学機器メーカーの各社からレンズが供給されていた。良く知られたものとしてはSchneider社Compononがある。設計特許としては1903年にSchultz and Biller-beck社のE.Arbeitが開示したEuryplan(オイリプラン)が最初のようである。ちなみにSchultz and Biller-beck社は後にHugo Meyer社に買収され、Euryplanの設計特許はHugo Meyer社のルドルフ博士の手によってPlasmatの開発に再利用されている。レンズの名称はもちろん宝石のサファイアである。SaphirはBoyer社が最も好んで多用した宝石名であり、この名称を持つレンズのみGauss型、Tessar型、Plasmat型など光学系の構成が多岐にわたる。今回入手したレンズ名の末尾に《B》の記号がついているのは、TessarタイプのSaphirと識別するためであろう。《B》の表記があるものがPlasmat型で、無表記のものがTessar型またはGauss型となっている。引き伸ばし用レンズを意味しているわけでないことはTessarタイプのSaphirにも引き伸ばし用レンズが存在することから明らかである。第二次世界大戦前の1939年までに少なくとも6種類のノンコート・モデル(焦点距離85mm, 100mm, 110mm, 120mm, 135mm, 210mm)がF4.5の口径比で発売され、戦後は1970年代に口径比F3.5を持つ少なくとも9種類のモデル(焦点距離25mm, 35mm, 50mm, 60mm, 65mm, 75mm, 80mm, 85mm, 95mm)と、口径比F4.5を持つ少なくとも6種類のモデル(100mm, 105mm, 110mm, 135mm, 150mm, 210mm)、および300mm F5.6が発売された。戦後に発売されたモデルにはガラス面にコーティングが施されている。なお、このレンズにはSAPHIR 《BX》という名で1970年代に発売された後継製品が存在している。

参考文献:Dan Fromm (USA) & Eric Beltrando (France), "Optiques Boyer: A short history of the company with an incomplete catalog of its lenses", Sept. 2008

  
入手の経緯
今回取り上げるBeryl 90mm F6.8は2013年2月にeBayを介してチェコのカメラメイトから入手した。レンズは送料込みの150ドルで売り出されており、値切り交渉を受け付けていたので118ドルでどうかと強気に提案してみたところ私のものとなった。外観はペイントのハゲが目立っていたが、商品の状態については同ショップによる(A)ランクの格付けで、「クリーンオプティック」と強気の解説なので、ガラスの状態は良さそうであった。BerylはBoyer製レンズの中でも市場にあまり出回らない比較的珍しいモデルである。口径比が暗いうえにマウント部がM39/L39ネジになっていることから、引き伸ばし用レンズとして認識されていたのかもしれないが、とにかく安く売られていた。届いたレンズは撮影に影響のないレベルのホコリと極薄いクリーニングマークがあったが、状態は良好である。DAGORタイプにしては破格値で手に入れることができたわけだ。ニシシ・・・。
続いてSAPHIR 《B》 100mm F4.5は2013年2月にeBayを介してポーランドの大手中古業者から入手した。商品は「ガラスに傷、カビ、バルサム切れはなく、わずかに使用感あり」との解説で200ドルの即決価格で売られていた。この業者はレアな商品を多く取り扱うが商品の状態については博打的な要素が強いので、クモリについてはどうなのかを事前に問い合わせ「クモリはない」との返答をもらっておいた。値切り交渉を受け付けていたので165ドルでどうかと提案したところ私のものとなった。送料込の総額は190ドルである。しかし、届いた品はフロントガラスに肉眼で判るほどの明らかなクモリである。セラーに連絡を取り、写真を添え、「あんなに慎重に尋ねたのに何でクモリなのですか?私が返送代金を払い損をするんだから、ちゃんと説明してくださいね!」と弁明を要求しつつ、「返送料を加えた返金に応じるなら落札者フィードバックはネガティブにもニュートラルにもしませんよ」と逃げ道を与えることで返送料を加えた全額返金に応じさせた。相手に明確な手落ちがある場合にはeBayの取引規定(返品時の送料は落差者負担)を無視し出品者に返送料を要求してもよいというのが私の持論である。例えば全く異なる商品が送られて来た場合には出品者が返送料を支払うのが筋であろう。セラーに対して何も主張しなければ通常は取引規定に呑まれてしまうのだ。なお、クモリの影響を見るため1枚だけ部屋の雛人形を試写してみた。
 
マウント部の変換
Boyer社のレンズは一部の製品を除きヘリコイドの省かれているものが大半である。多くはマウント部がM39/L39ネジで供給されているので、M39-M42アダプターリングを介してM42フォーカッシング・ヘリコイドに搭載すれば、無改造のまま一眼レフカメラやミラーレス機で使用可能になる。

M39-M42リングアダプターを装着しマウントをM39/L39からM42に変換する。これでM42フォーカッシング・ヘリコイドに搭載できる

M42フォーカッシング・ヘリコイド(36-90mm)に搭載した様子。後列のSaphir《B》は返品したので、ここでは単なる飾りとして掲載している
M39-M42リングアダプターやM42フォーカッシング・ヘリコイド(36-90mm)はeBayから常時入手することができる。上の写真はBeryl 90mm F6.8をM42フォーカッシング・ヘリコイドに装着した例である。使用しているヘリコイドは高伸長タイプなので最短撮影距離は40cm程度となりマクロ撮影も可能だ。一方、遠方側の最長ピント部は無限遠を通り過ぎ若干のオーバーインフとなる。このままM42レンズとして使用することもできるし、マウントアダプターを介してNikon Fマウントのカメラで使用することも可能である。この場合は補正レンズを使わないで無限遠のフォーカスを拾うことができる。

撮影テスト
BerylはGoerz社の傑作レンズDagorを模範とするBoyer社の改良レンズである。ピント部の画質は四隅まで安定しており、Dagor 90mmの作例(こちら)で近接撮影時に見られた僅かな色収差もBeryl 90mmではほぼ完全に補正されている。Dagorともどもヌケの良いレンズなので、スッキリと写り、温調気味の鮮やかな発色である。
Dagorと言えばコーティング技術が実用化されていかった時代に空気境界面を徹底的に減らすことで内面反射光を抑さえ、アナスチグマートでありながら高い階調描写力を実現した画期的なレンズである。空気とガラスの境界面が僅か4面しかないという特異な設計構成であることに加え、ハロやコマが殆どないため、コントラストが高く、階調描写はとても鋭い。元々はコーティングに頼らなくても充分シャープに写るレンズ構成であるが、Berylの場合には1970年代のモデルチェンジで現代の技術水準に近い高性能なコーティングが施されている。このため、コントラストやシャープネスは異常に高く、シャドー部には驚くほど締りがある。しかし、その副作用として晴天時などで使用すると階調の硬化が進み、中間階調が奮わず黒潰れを頻発してしまう。この種の悩みは1970年代以降のテッサーやトリプレットにもみられる。こういう描写を焦げた目玉焼きなどにかけて「カリカリの描写」と呼ぶらしい。オールドレンズ愛好家達は階調描写のなだらかさや中間階調の豊富さに古典レンズならではの価値を見いだしているが、一方でシンプルな構成を持ちヌケの良い古典レンズに現代のコーティングを施すと、レンズの性質が反転し本来求められていた描写特性とは正反対の極めて鋭利な性質が表れてしまうのであろう。コントラストやシャープネスは単に高ければ良いというものではない。Berylはその事を私たちに教えてくれる模範的なレンズなのだ。なお、このレンズを晴天下で使用する場合はレンズフードを故意に外すなど、階調描写力の暴走にブレーキをかけるための特別な配慮が必要になってくる。
 

CAMERA: EOS 6D, AWB
LENS HOOD: 北方屋特性Elmar専用マイクロメタルフード
Beryl 90mm F6.8@F16+EOS 6D(AWB): 近接撮影でも高い解像力を維持している。このとおりスッキリとヌケの良いレンズだ
Beryl 90mm F4.5@F8+EOS6D(AWB): 少し絞るだけで解像力はこのとおりに高く、ピント部の画質は四隅まで安定している

Boyer Beryl 90mm F6.8@F6.8(開放)+EOS6D(AWB): コントラストが高く、開放絞りでもこれだけシャープに写る。ただし、日差しが強いとシャドー部が完全に黒潰れしてしまい、中間階調を省略したような描写に時々頭を抱えてしまう

Beryl 90mm F6.8@F8+EOS 6D(AWB): 発色はとても鮮やか。やや温調気味の傾向だ

Beryl 90mm F6.8@F6.8+EOS 6D(AWB): 後ボケはやや硬く距離によってはザワザワと煩くなることもある


Beryl 90mm F6.8@F6.8+EOS 6D(AWB): 前ボケはフワッとしていて悪くない印象だ
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下の作例はSaphir《B》でクモリの影響を見るために室内で試写した結果である。レンズ本来の実力ではないので参考程度にしてほしい。


Saphir《B》 100mm F4.5@F11+EOS 6D(AWB): クモリの影響で解像力はそれほど高くはないし、ヌケも今一つ。世評ではシャープな描写力を持つレンズとのことである。はやり返して正解
SAPHIRはBoyer社が最も好んで多用した宝石名である。設計士Suzanneはこの宝石に特別な思いを抱いていたのかもしれない。ちなみに世界4大宝石の中に同社のレンズ名として使用されなかったものが一つだけあり、宝石の王者ダイアモンドである。この宝石名が使用されなかったことには何か深い事情があったのかもしれない。